宮城福島教区報「はなぞの」 令和四年七月一日発刊予定原稿 令和四年度推進テーマ『おかげさま 向きあい よりそう 「衆生無辺誓願度」』
東日本大震災発生より十一年。町並みは変わり、一見復興は進んでいるかに思われます。けれど未だ行方不明の方も多く、原発の放射性物質汚染により避難を余儀なくされ、故郷を失った方々の苦悩は続き、沿岸部の過疎化、経済的困窮は待ったなしの課題として重くのしかかっています。何より被災により負った深い心の傷は、時を経て瘡蓋(かさぶた)の如く表面からは見えにくくなっても、却ってより深くしている方も多いでしょう。その節目に起こったロシアによるウクライナ侵攻。理不尽な武力の行使により、逃げまどい、命の危険に晒(さら)され、一瞬にしてそれまでの平穏な日常が破壊され、全てを失い、恐怖と絶望に苦しむ人々の姿が連日報道されています。目の当たりにする人々の苦悩を私達自身に重ね合わせ、いたたまれない日々が続きます。
【衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)】この句は、法要や行事の最後に唱えられ、耳慣れた方も多いでしょう。「この世界に悩み、苦しむ人々は限りなく無限に尽きることはない。けれど最後の一人まで、誓って救い尽くしてまいります」という不退転(ふたいてん)の強い決意を意味しています。けれどそれは終わりのない=果てしない永遠の営みを意味します。私たちは目の前で(報道も含め)喜び悩み苦しむ人々の姿に接すると、そのこころをわがものとして、喜怒哀楽を共にする本質を生まれながらに持っています。それを「ほとけの心=仏性(ぶっしょう)」と申します。こころの奥底から自然と愛情が沸き起こって来るのです。仏教の言葉では「慈悲」と申します。「慈」とは最高の友情を、「悲」は呻(うめ)き苦しむことです。ではなぜこの二つが合わさると「ほとけのこころ」となるのでしょうか?それは、自分自身が本当に呻き苦しみ、傷ついて、それを必死に乗り越えたものだけが、目の前の人びととの「こころの壁を取り払って、その喜び、苦しみ、悲しみをわがものとして、最高の友情の手を差し伸べることができる、との深い洞察(どうさつ)が根底にあるからです。終わりのない、果てしない無駄骨折りかもしれないけれど、少しでも力になれないか、何かできないかと、今自分の立場でできることに精一杯前向きに取り組んでいく潔(いさぎよ)さ、こころの強(したた)かさを頂いて、この世に生まれきているのです。私たちはともすれば、普段自分独(ひと)りの力で生きているかのように勘違いをしがちです。しかし、こころを鎮(しず)め、誕生以来の人生を振り返ってみれば、ご先祖様、両親はじめありとあらゆる方々の直接・間接のお陰様に気づきます。この命=身体は、数え切れぬ他の生命が積み重なり、食物、衣服や住居となっています。宇宙、太陽、酸素などは私たちの暮らしを支える生活環境として、無限に無償で無条件に与えられていることに驚かされます。目には見えねど、数知れぬ大いなるお陰様に支えられて、ありがたくもこの瞬間を生かさている私です。この気づきを感謝に代えて、報恩の行を積みましょう。結果や報いを顧みず、ただひたすらに、心を込めて「少しでもお役に立ちたい」と努力する行いは、仏さまと寸分変わらぬ尊い姿です。それは「私利私欲」を遥(はる)かに超えた、大いなる悦(よろこ)びと生きがいを私たちにもたらしてくれるはずです。なぜなら、このちっぽけな「わたし」は、仮に一瞬区切られた、この宇宙全体の大いなる命の一部に過ぎないからです。すべての命とこころは繋(つなが)ている。自他一如(じたいちにょ)と申します。合掌
【はじめに】
東日本大震災発生より十一年。町並みは変わり、一見復興は進んでいるかに思われます。けれど未だ行方不明の方も多く、原発の放射性物質汚染により避難を余儀なくされ、故郷を失った方々の苦悩は続き、沿岸部の過疎化、経済的困窮は待ったなしの課題として重くのしかかっています。何より被災により負った深い心の傷は、時を経て瘡蓋(かさぶた)の如く表面からは見えにくくなっても、却ってより深くしている方も多いでしょう。その節目に起こったロシアによるウクライナ侵攻。理不尽な武力の行使により、逃げまどい、命の危険に晒(さら)され、一瞬にしてそれまでの平穏な日常が破壊され、全てを失い、恐怖と絶望に苦しむ人々の姿が連日報道されています。目の当たりにする人々の苦悩を私達自身に重ね合わせ、いたたまれない日々が続きます。
【衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)】この句は、法要や行事の最後に唱えられ、耳慣れた方も多いでしょう。「この世界に悩み、苦しむ人々は限りなく無限に尽きることはない。けれど最後の一人まで、誓って救い尽くしてまいります」という不退転(ふたいてん)の強い決意を意味しています。けれどそれは終わりのない=果てしない永遠の営みを意味します。私たちは目の前で(報道も含め)喜び悩み苦しむ人々の姿に接すると、そのこころをわがものとして、喜怒哀楽を共にする本質を生まれながらに持っています。それを「ほとけの心=仏性(ぶっしょう)」と申します。こころの奥底から自然と愛情が沸き起こって来るのです。仏教の言葉では「慈悲」と申します。「慈」とは最高の友情を、「悲」は呻(うめ)き苦しむことです。ではなぜこの二つが合わさると「ほとけのこころ」となるのでしょうか?それは、自分自身が本当に呻き苦しみ、傷ついて、それを必死に乗り越えたものだけが、目の前の人びととの「こころの壁を取り払って、その喜び、苦しみ、悲しみをわがものとして、最高の友情の手を差し伸べることができる、との深い洞察(どうさつ)が根底にあるからです。終わりのない、果てしない無駄骨折りかもしれないけれど、少しでも力になれないか、何かできないかと、今自分の立場でできることに精一杯前向きに取り組んでいく潔(いさぎよ)さ、こころの強(したた)かさを頂いて、この世に生まれきているのです。私たちはともすれば、普段自分独(ひと)りの力で生きているかのように勘違いをしがちです。しかし、こころを鎮(しず)め、誕生以来の人生を振り返ってみれば、ご先祖様、両親はじめありとあらゆる方々の直接・間接のお陰様に気づきます。この命=身体は、数え切れぬ他の生命が積み重なり、食物、衣服や住居となっています。宇宙、太陽、酸素などは私たちの暮らしを支える生活環境として、無限に無償で無条件に与えられていることに驚かされます。目には見えねど、数知れぬ大いなるお陰様に支えられて、ありがたくもこの瞬間を生かさている私です。この気づきを感謝に代えて、報恩の行を積みましょう。結果や報いを顧みず、ただひたすらに、心を込めて「少しでもお役に立ちたい」と努力する行いは、仏さまと寸分変わらぬ尊い姿です。それは「私利私欲」を遥(はる)かに超えた、大いなる悦(よろこ)びと生きがいを私たちにもたらしてくれるはずです。なぜなら、このちっぽけな「わたし」は、仮に一瞬区切られた、この宇宙全体の大いなる命の一部に過ぎないからです。すべての命とこころは繋(つなが)ている。自他一如(じたいちにょ)と申します。合掌
宮城福島教区報「はなぞの」 令和四年七月一日発刊予定原稿 令和四年度推進テーマ『おかげさま 向きあい よりそう 「衆生無辺誓願度」』
東日本大震災発生より十一年。町並みは変わり、一見復興は進んでいるかに思われます。けれど未だ行方不明の方も多く、原発の放射性物質汚染により避難を余儀なくされ、故郷を失った方々の苦悩は続き、沿岸部の過疎化、経済的困窮は待ったなしの課題として重くのしかかっています。何より被災により負った深い心の傷は、時を経て瘡蓋(かさぶた)の如く表面からは見えにくくなっても、却ってより深くしている方も多いでしょう。その節目に起こったロシアによるウクライナ侵攻。理不尽な武力の行使により、逃げまどい、命の危険に晒(さら)され、一瞬にしてそれまでの平穏な日常が破壊され、全てを失い、恐怖と絶望に苦しむ人々の姿が連日報道されています。目の当たりにする人々の苦悩を私達自身に重ね合わせ、いたたまれない日々が続きます。
【衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)】この句は、法要や行事の最後に唱えられ、耳慣れた方も多いでしょう。「この世界に悩み、苦しむ人々は限りなく無限に尽きることはない。けれど最後の一人まで、誓って救い尽くしてまいります」という不退転(ふたいてん)の強い決意を意味しています。けれどそれは終わりのない=果てしない永遠の営みを意味します。私たちは目の前で(報道も含め)喜び悩み苦しむ人々の姿に接すると、そのこころをわがものとして、喜怒哀楽を共にする本質を生まれながらに持っています。それを「ほとけの心=仏性(ぶっしょう)」と申します。こころの奥底から自然と愛情が沸き起こって来るのです。仏教の言葉では「慈悲」と申します。「慈」とは最高の友情を、「悲」は呻(うめ)き苦しむことです。ではなぜこの二つが合わさると「ほとけのこころ」となるのでしょうか?それは、自分自身が本当に呻き苦しみ、傷ついて、それを必死に乗り越えたものだけが、目の前の人びととの「こころの壁を取り払って、その喜び、苦しみ、悲しみをわがものとして、最高の友情の手を差し伸べることができる、との深い洞察(どうさつ)が根底にあるからです。終わりのない、果てしない無駄骨折りかもしれないけれど、少しでも力になれないか、何かできないかと、今自分の立場でできることに精一杯前向きに取り組んでいく潔(いさぎよ)さ、こころの強(したた)かさを頂いて、この世に生まれきているのです。私たちはともすれば、普段自分独(ひと)りの力で生きているかのように勘違いをしがちです。しかし、こころを鎮(しず)め、誕生以来の人生を振り返ってみれば、ご先祖様、両親はじめありとあらゆる方々の直接・間接のお陰様に気づきます。この命=身体は、数え切れぬ他の生命が積み重なり、食物、衣服や住居となっています。宇宙、太陽、酸素などは私たちの暮らしを支える生活環境として、無限に無償で無条件に与えられていることに驚かされます。目には見えねど、数知れぬ大いなるお陰様に支えられて、ありがたくもこの瞬間を生かさている私です。この気づきを感謝に代えて、報恩の行を積みましょう。結果や報いを顧みず、ただひたすらに、心を込めて「少しでもお役に立ちたい」と努力する行いは、仏さまと寸分変わらぬ尊い姿です。それは「私利私欲」を遥(はる)かに超えた、大いなる悦(よろこ)びと生きがいを私たちにもたらしてくれるはずです。なぜなら、このちっぽけな「わたし」は、仮に一瞬区切られた、この宇宙全体の大いなる命の一部に過ぎないからです。すべての命とこころは繋(つなが)ている。自他一如(じたいちにょ)と申します。合掌
【はじめに】
東日本大震災発生より十一年。町並みは変わり、一見復興は進んでいるかに思われます。けれど未だ行方不明の方も多く、原発の放射性物質汚染により避難を余儀なくされ、故郷を失った方々の苦悩は続き、沿岸部の過疎化、経済的困窮は待ったなしの課題として重くのしかかっています。何より被災により負った深い心の傷は、時を経て瘡蓋(かさぶた)の如く表面からは見えにくくなっても、却ってより深くしている方も多いでしょう。その節目に起こったロシアによるウクライナ侵攻。理不尽な武力の行使により、逃げまどい、命の危険に晒(さら)され、一瞬にしてそれまでの平穏な日常が破壊され、全てを失い、恐怖と絶望に苦しむ人々の姿が連日報道されています。目の当たりにする人々の苦悩を私達自身に重ね合わせ、いたたまれない日々が続きます。
【衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)】この句は、法要や行事の最後に唱えられ、耳慣れた方も多いでしょう。「この世界に悩み、苦しむ人々は限りなく無限に尽きることはない。けれど最後の一人まで、誓って救い尽くしてまいります」という不退転(ふたいてん)の強い決意を意味しています。けれどそれは終わりのない=果てしない永遠の営みを意味します。私たちは目の前で(報道も含め)喜び悩み苦しむ人々の姿に接すると、そのこころをわがものとして、喜怒哀楽を共にする本質を生まれながらに持っています。それを「ほとけの心=仏性(ぶっしょう)」と申します。こころの奥底から自然と愛情が沸き起こって来るのです。仏教の言葉では「慈悲」と申します。「慈」とは最高の友情を、「悲」は呻(うめ)き苦しむことです。ではなぜこの二つが合わさると「ほとけのこころ」となるのでしょうか?それは、自分自身が本当に呻き苦しみ、傷ついて、それを必死に乗り越えたものだけが、目の前の人びととの「こころの壁を取り払って、その喜び、苦しみ、悲しみをわがものとして、最高の友情の手を差し伸べることができる、との深い洞察(どうさつ)が根底にあるからです。終わりのない、果てしない無駄骨折りかもしれないけれど、少しでも力になれないか、何かできないかと、今自分の立場でできることに精一杯前向きに取り組んでいく潔(いさぎよ)さ、こころの強(したた)かさを頂いて、この世に生まれきているのです。私たちはともすれば、普段自分独(ひと)りの力で生きているかのように勘違いをしがちです。しかし、こころを鎮(しず)め、誕生以来の人生を振り返ってみれば、ご先祖様、両親はじめありとあらゆる方々の直接・間接のお陰様に気づきます。この命=身体は、数え切れぬ他の生命が積み重なり、食物、衣服や住居となっています。宇宙、太陽、酸素などは私たちの暮らしを支える生活環境として、無限に無償で無条件に与えられていることに驚かされます。目には見えねど、数知れぬ大いなるお陰様に支えられて、ありがたくもこの瞬間を生かさている私です。この気づきを感謝に代えて、報恩の行を積みましょう。結果や報いを顧みず、ただひたすらに、心を込めて「少しでもお役に立ちたい」と努力する行いは、仏さまと寸分変わらぬ尊い姿です。それは「私利私欲」を遥(はる)かに超えた、大いなる悦(よろこ)びと生きがいを私たちにもたらしてくれるはずです。なぜなら、このちっぽけな「わたし」は、仮に一瞬区切られた、この宇宙全体の大いなる命の一部に過ぎないからです。すべての命とこころは繋(つなが)ている。自他一如(じたいちにょ)と申します。合掌