「あおば」令和二年十二月号原稿
宮城刑務所教誨師会副会長 梅澤徹玄
年を重ねる毎に一年経つのが益々早く感じられる年の瀬です。禅宗では坐禅の際に、打板(だはん)と称する木の厚板を、七五三のリズム〔はじめゆっくりと、だんだん加速度的に速く短くなる〕で打ち鳴らし、心の準備を調えます。そこには「生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人(しょうじじだい むじょうじんそく こういんおしむべし ときひとをまたず)」と墨書されています。〔生き死にを極めるのは人生の一大事である。時の経つのは本当に早い。時は決して人の都合を待ってはくれない。〕と。譬えてみれば「オギャァー」と生まれた途端人生の砂時計をひっくり返したようなもので、この世を旅立つ死の瞬間まで、一瞬もその時を留めることはできません。しかもその長さはだれも予め知ることはできずある日、突然やって来るのです。
先年百五歳でご逝去された聖路加国際病院名誉院長であった日野原重明先生は、著書(*注1)の中でこう述べています。
「わたしたちのからだは土でできており、からだは早晩土に還ります。(中略)もっているものは器とともに朽ちていくけれども、うつわに入れた魂の水はいつまでも家族の中に、子孫の中に、友達の中にしみこんでゆく。私たちがそういう意味での永遠性を信じることができれば、私たちは何をもつかということを考えるよりも、なんであるかということに全力投球すべきだということが理解できるでしょう。(中略)いちばん大切なのはエゴを捨てて純粋に生きたいという思いがかもし出されてはじめて、本格的な生活行動が生まれるのです」と。
この世を旅立つ最期の瞬間、人生を振り返り、「何はともあれ、この世に生まれてきて良かった」と悔いなく安堵できるかどうか?それは今この一瞬一瞬をどう心を込めて、誠実に生きるかに掛かっているはずです。合掌
*注1—日野原重明著「生きることの質」岩波新書