こころの隙間をうめる
幸せのある暮らし
課題禅語「主人公」 氏名梅澤徹玄
こころの隙間をうめる
人は誰しも寂しがりやです。周りを見渡せば、みな家族の愛情や人間関係に恵まれたひとばかり。
「なぜ自分ばかりが。。。」と不幸を恨み、堪えがたいこころの隙間に悩み、愛情を求め、もがき苦しむのはなぜでしょう。
縁あって刑務所の教誨師をしています。十代の頃から非行に走り、暴力組織の一員として重犯罪を犯した方々が多く収容されている施設に通っています。
宗教者として彼らのこころと向き合うボランティアです。私たち塀の外の一般の人間とは、かけ離れた恐ろしい特殊な人々と思われるかもしれません。
けれど生まれた瞬間は、まっさらな裸の無垢な赤ん坊です。生い立ちをよくよく聞けば、子供の頃から親や周囲の愛情に恵まれず、ぽっかりと空いたこころの隙間を埋めようともがき苦しみ、気が付いた時には(刑務所の)塀の中にいたと言うのです。ふと我に返り、やり場のない救いのない気持ちを持て余し、何とかしたいと救いを求めて私たちのもとにやって来るのです。教誨で私が最も心掛けていることは、始めと終わりに、心を込めて丁寧に挨拶をすることです。
恵まれない環境に打ちひしがれ、一人の人間として大切にされない苦しさを抱えて来たであろう、彼らの辛さに寄り添う気持ちを込めています。強面(こわもて)の初対面から少しずつ心を開き、互いに作法を教え合い、学び合い、緊張の面持ちで、失敗しては恥ずかしがり、ほめられて喜ぶ姿はいとおしい限りです。運動会の入賞者には、私たち来賓の前で商品が手渡されます。それはタオルとか石鹸ですが、その表情は喜びに満ちて誇らしげです。私は思います。かれらが子どもの頃に、手作りの弁当を持って、運動会の応援に駆け付けてくれた両親や家族がいたのだろうか、と。人は心の中で、いつも認められたいと思っています。いつでも大切にされたいと思っています。
けれど、誰しもがそのような恵まれた環境にある訳ではありません。その時、「あいつが悪い。こいつが悪い」と自分の外に原因を押し付けて、自分を守ろうとします。結局何も変わらず、自分で自分の心とからだと人生を傷つけてしまいます。自分の望む方向と逆の方向に向かってしまいます。いったん立ち止まり、こころの奥底の自分の本音と向き合うことが、すべての出発点ではないでしょうか。御本山の仕事で遠く離れたある寺院で法話を終えて控室に戻った時のことです。ご住職から「お話を聴いた方がぜひお会いしたい」とのこと。入って来られたのは、意外にもご本人の男性とお母さん、奥さん、子どもさん二人の家族連れでした。開口一番「先生お久しぶりです!」刑務所で教誨を受け、今は地元に帰って暮らす彼が、たまたま寺の掲示板で私の来訪を知り、ぜひとも家族を連れて更生した姿を見せたいと、わざわざ訪ねて来てくれたのです。全く思いも寄らない再会でした。出所してからの困難な道のりと、それにめげず懸命な努力を積み重ねてきた心中を思い、胸が熱くなりました。全てを受け止め、彼を支える家族の姿に胸を打たれました。「良く訪ねて来てくれたね!」としっかり手を取り合いました。法の裁きによってそれまでの全てを失い、家族と引き離され、絶望と孤独の中で人生を必死に振り返ったはずです。
その時かれの心の中に浮かんできたものは何だったのでしょう。もう一度人生をやり直せるならば、もう二度と手放してはいけない確かなものは何か?絶望の淵に立たされた彼は、心の底の自分の本心に気づいたのでしょう。自分が変わらなければ、何も始まらない。必ずやり直せるはずだ。それを決めるのは自分自身である、と。けれど人間は弱い生き物ものです。独りでは決して生きられません。しかし本気で何かに取り組もう、挑戦しようとするとき、必ず周りにそれを見てくれている人がいます。応援しようと心を寄せてくれる人が必ずいます。それを信じ心の支えとして、決してあきらめず、希望を見失わず、周囲の人々の善意に心を開き、少しづつ前に進むしか手立てがありません。その積み重ねこそ本当の意味で、自分の望む人生を切り開いてゆくことになるのではないでしょうか。いつでも、どこでも、生まれながらのまっさらな裸のこころで生きて行けたら最高ですね。(寺院名禪興寺・氏名梅澤徹玄)