清浄山 禪興寺

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和尚随筆

2020.09/15

和尚随筆

与える前から、与えられていた

「幸せの青いトリセツ」第2稿 梅澤徹玄

 

「あっ⁉やってしまった!」一瞬息を呑み、目を見張って見詰めてしまいました。

一週間前に移植したばかりの樹高2M程のトネリコの木が、青々としたツヤのある葉をすべて落としていたからです。今まで何の不自由もなく、春の芽吹きに励んでいたものを、「自分の思い付きで死なせてしまった」との後悔に胸がふさがる思いでした。

 

今年は年初より境内地の奥で、百年の森作りに取り組んでいます。休耕田を造成した更地は暖冬で積雪はありません。山に囲まれた広大な敷地に、大きな樹木は業者に任せ、後はひたすら地面を這うように小さな樹木や草花を植え続けました。3月から5月にかけ、ほとんど雨が降らず、カン照りが続き、まだ根の付かない樹木に水をやらねば枯れてしまいます。大きなバケツやじょうろで、敷地を流れる山の湧き水の渓流から水を汲み、運び、築山を上り、根元に水をかける。来る日も来る日も朝から日の暮れるまで、この繰り返しで一日が過ぎて行きました。お陰様で体重も8㎏ほど減り、真っ黒に日焼けして、周りからは「サーファーか⁈」とからかわれる始末です。

 
思い起こせば、寺を離れず、春の彼岸を挟んで、自分の寺でこんなにじっくりと時間を過ごしたのは何十年ぶりであったでしょう。さまざまな出張や課題に追われ、全国を飛び回り、綱渡りのようなスケジュールに冷や汗をかいて。その癖、忙しさを誇るかのようなこころのいびつさに、漠然とした不安をこころの奥底に持ち続けてきた日々。やらねばならない事に追いまくられ、あれもこれもと、こころが散らばるような慌ただしさに、こころの澱(おり)がいつのまにか溜まっていたのでしょう。

 

SNS流行りで、仕事もプライベートも(他人より)充実し、それを発信して、(人様の)称賛を浴び続けなければと、世間は幸せ自慢に明け暮れているかのようです。自分も負けぬよう、知らず知らずに無理を重ねていたのでしょうか。
自然の只中でただひとり、炎天下の大地に向かって鍬を振るい、体力を振り絞って、樹木に水を灌ぐ。そんな単純な生活のリズムのおかげか、こころにこびり付いた薄皮が、一枚一枚自然と剥がれてゆくような心地よさを感じる毎日でした。

 
ある酷暑の午後。疲れ果て、ふと渓流に、熱した手と頭と浸し、顔を洗い、覆いかぶさるようにそそり立つ岸壁と樹木の木陰に身を隠し、川原に座って、炎天下の木々を振り返って眺めていたその時です。水不足で枯れぬよう、必死に歯を食いしばっていた私の思いとは裏腹に、木々は生命力に溢れ、天地一杯に枝葉を広げ、命の輝きを放っているではないですか。その中に、私もひとつのいのちとして確かに生かされている。喜びと感謝が溢れてきました。木々に「ありがとう」と言いたい気分だったのです。

 

そんなある日、「あの枯れたトネリコを引っこ抜いてしまわねば」と思いつつ、愛犬の柴犬の散歩で仕事終わりの見回りをしていた時です。又、思わず息を呑み、目を見張ってしまいました。なんとあのトネリコが、青々としたつややかな葉を見事に茂らせているではありませんか。移植で根を切られ、仮死状態になった木は、自らの意志で古い葉を落とし、新しい命を育む新緑を芽生えさせていたのです。試練を乗り越える逞しいいのちの営みは、与えられる前から備わっていたのです。

 
木の根とわたしの根が、どこかでひとつにつながっている。木とわたしのいのちは、形は違っているけれど、おなじ今を生きている。そう素直に感じさせてもらえた瞬間でした。
百年後に自分は生きていないけれど、君たちが生きる百年後の森に、わたしの息吹が感じられると信じて、今この瞬間を、こころをこめて、精一杯生きてゆこうと思っています。

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和尚随筆

2020.09/15
和尚随筆

与える前から、与えられていた

「幸せの青いトリセツ」第2稿 梅澤徹玄

 

「あっ⁉やってしまった!」一瞬息を呑み、目を見張って見詰めてしまいました。

一週間前に移植したばかりの樹高2M程のトネリコの木が、青々としたツヤのある葉をすべて落としていたからです。今まで何の不自由もなく、春の芽吹きに励んでいたものを、「自分の思い付きで死なせてしまった」との後悔に胸がふさがる思いでした。

 

今年は年初より境内地の奥で、百年の森作りに取り組んでいます。休耕田を造成した更地は暖冬で積雪はありません。山に囲まれた広大な敷地に、大きな樹木は業者に任せ、後はひたすら地面を這うように小さな樹木や草花を植え続けました。3月から5月にかけ、ほとんど雨が降らず、カン照りが続き、まだ根の付かない樹木に水をやらねば枯れてしまいます。大きなバケツやじょうろで、敷地を流れる山の湧き水の渓流から水を汲み、運び、築山を上り、根元に水をかける。来る日も来る日も朝から日の暮れるまで、この繰り返しで一日が過ぎて行きました。お陰様で体重も8㎏ほど減り、真っ黒に日焼けして、周りからは「サーファーか⁈」とからかわれる始末です。

 
思い起こせば、寺を離れず、春の彼岸を挟んで、自分の寺でこんなにじっくりと時間を過ごしたのは何十年ぶりであったでしょう。さまざまな出張や課題に追われ、全国を飛び回り、綱渡りのようなスケジュールに冷や汗をかいて。その癖、忙しさを誇るかのようなこころのいびつさに、漠然とした不安をこころの奥底に持ち続けてきた日々。やらねばならない事に追いまくられ、あれもこれもと、こころが散らばるような慌ただしさに、こころの澱(おり)がいつのまにか溜まっていたのでしょう。

 

SNS流行りで、仕事もプライベートも(他人より)充実し、それを発信して、(人様の)称賛を浴び続けなければと、世間は幸せ自慢に明け暮れているかのようです。自分も負けぬよう、知らず知らずに無理を重ねていたのでしょうか。
自然の只中でただひとり、炎天下の大地に向かって鍬を振るい、体力を振り絞って、樹木に水を灌ぐ。そんな単純な生活のリズムのおかげか、こころにこびり付いた薄皮が、一枚一枚自然と剥がれてゆくような心地よさを感じる毎日でした。

 
ある酷暑の午後。疲れ果て、ふと渓流に、熱した手と頭と浸し、顔を洗い、覆いかぶさるようにそそり立つ岸壁と樹木の木陰に身を隠し、川原に座って、炎天下の木々を振り返って眺めていたその時です。水不足で枯れぬよう、必死に歯を食いしばっていた私の思いとは裏腹に、木々は生命力に溢れ、天地一杯に枝葉を広げ、命の輝きを放っているではないですか。その中に、私もひとつのいのちとして確かに生かされている。喜びと感謝が溢れてきました。木々に「ありがとう」と言いたい気分だったのです。

 

そんなある日、「あの枯れたトネリコを引っこ抜いてしまわねば」と思いつつ、愛犬の柴犬の散歩で仕事終わりの見回りをしていた時です。又、思わず息を呑み、目を見張ってしまいました。なんとあのトネリコが、青々としたつややかな葉を見事に茂らせているではありませんか。移植で根を切られ、仮死状態になった木は、自らの意志で古い葉を落とし、新しい命を育む新緑を芽生えさせていたのです。試練を乗り越える逞しいいのちの営みは、与えられる前から備わっていたのです。

 
木の根とわたしの根が、どこかでひとつにつながっている。木とわたしのいのちは、形は違っているけれど、おなじ今を生きている。そう素直に感じさせてもらえた瞬間でした。
百年後に自分は生きていないけれど、君たちが生きる百年後の森に、わたしの息吹が感じられると信じて、今この瞬間を、こころをこめて、精一杯生きてゆこうと思っています。

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