清浄山 禪興寺

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和尚随筆

2015.09/24

和尚随筆

「みやぎ宗連報35号」特別寄稿原稿 題―「いのち」

はじめに

今を遡ること約二千五百年、釈尊は「人は、おのれより愛しい(いと)ものを見いだすことはできぬ。
それとおなじく、他の人々にも、自己はこの上もなく愛おしい。
されば、おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ。」と偈(げ)を述べ、不殺生戒(ふせっしょうかい)(殺してはならぬ)」を定められたとされる。*注1

「いのち」の尊厳

「いのち」の尊厳と口にすれば、砂をかんだようなやるせない時代を生きる私たちである。
マスコミや巷(ちまた)に溢れる悲惨な事件・事故は、日常のありふれた情報となり、人ひとりの「いのち」の重さに対する現実感覚をいつしか麻痺(まひ)させているかのように感じられる。
「誰でもよかった」と口走る容疑者の自暴自棄のあげくの「道づれ」感覚には、他者の「いのち」に対する敬意のかけらも感じられない。
と同時に、それは彼自身の人生と「いのち」が、他者に大切に扱われてこなかったという怨念(おんねん)の裏返しであろう。
思い通りにならない人生の袋小路に追い込まれた自身の責任は、他者の「いのち」を虫けら同然に扱うことで、他者に転嫁される。しかし、結果としておのれの人生に拭いようのない「いのち」の重みの「首かせ」をはめてしまうことに、踏みとどまって思いを致すことはなかったのだろうか?

刑務所の教誨師として

宮城刑務所で教誨師として活動させて頂いている。
全国で最も重い罪を犯した人々が収容される施設の一つであり、「いのち」に係わる罪を犯した人も多い。
目の前の彼らは、こころ開きさえすれば、私たちと何も変わらぬ当たり前の人間である。
しかし人生のある瞬間、越えてはならない一線を越えて、その後悔の念にさいなまれつつ、つぐないの人生を強いられ、自由を奪われている点が違うに過ぎない。
家族や社会、自由、名誉、肉親の情といった全てを国家から強制的に奪われた彼ら。
だからこそ、骨身に染みて痛感する他者の「いのち」の重みと、自己の尊厳がある。「生きている」ことの根源的な意味を自らの人生に問い返さずにはいられない、果てしのない悔恨の日々が続く。
ある個人教誨の折。何十年前の自らの行為に苦しむ彼に「あなたはもう充分に悔い改めた。そのあなたこそ、『いのち』の本当の重さを知るかけがえのない人生ではないですか。」と語りかけた。
止めどもない涙が彼の頬をつたった。
事件のあった方角に向かい、ともに五体投地の拝を繰り返して般若心経を唱えた。「ようやく胸のつかえが取れました」と別人のような安堵(あんど)の表情を浮かべて彼は再び独居房に帰っていった。

さいごに

この彼の自らをさいなみ続けた良心にこそ、又悔い改めて初めて見せた安堵の表情にこそ、人間のいのち尊厳があるのではないだろうか。
たとえどんなにどん底に落ちても、決して失われることのない、清らかな「いのち」の躍動をこそ、私たち宗教者はみずからの言葉と経験を力として、人々のこころに取り戻してゆく使命があるのだと思うこのごろである。

以 上
*注1 増谷文雄著「仏教百話」ちくま文庫

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和尚随筆

2015.09/24
和尚随筆

「みやぎ宗連報35号」特別寄稿原稿 題―「いのち」

はじめに

今を遡ること約二千五百年、釈尊は「人は、おのれより愛しい(いと)ものを見いだすことはできぬ。
それとおなじく、他の人々にも、自己はこの上もなく愛おしい。
されば、おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ。」と偈(げ)を述べ、不殺生戒(ふせっしょうかい)(殺してはならぬ)」を定められたとされる。*注1

「いのち」の尊厳

「いのち」の尊厳と口にすれば、砂をかんだようなやるせない時代を生きる私たちである。
マスコミや巷(ちまた)に溢れる悲惨な事件・事故は、日常のありふれた情報となり、人ひとりの「いのち」の重さに対する現実感覚をいつしか麻痺(まひ)させているかのように感じられる。
「誰でもよかった」と口走る容疑者の自暴自棄のあげくの「道づれ」感覚には、他者の「いのち」に対する敬意のかけらも感じられない。
と同時に、それは彼自身の人生と「いのち」が、他者に大切に扱われてこなかったという怨念(おんねん)の裏返しであろう。
思い通りにならない人生の袋小路に追い込まれた自身の責任は、他者の「いのち」を虫けら同然に扱うことで、他者に転嫁される。しかし、結果としておのれの人生に拭いようのない「いのち」の重みの「首かせ」をはめてしまうことに、踏みとどまって思いを致すことはなかったのだろうか?

刑務所の教誨師として

宮城刑務所で教誨師として活動させて頂いている。
全国で最も重い罪を犯した人々が収容される施設の一つであり、「いのち」に係わる罪を犯した人も多い。
目の前の彼らは、こころ開きさえすれば、私たちと何も変わらぬ当たり前の人間である。
しかし人生のある瞬間、越えてはならない一線を越えて、その後悔の念にさいなまれつつ、つぐないの人生を強いられ、自由を奪われている点が違うに過ぎない。
家族や社会、自由、名誉、肉親の情といった全てを国家から強制的に奪われた彼ら。
だからこそ、骨身に染みて痛感する他者の「いのち」の重みと、自己の尊厳がある。「生きている」ことの根源的な意味を自らの人生に問い返さずにはいられない、果てしのない悔恨の日々が続く。
ある個人教誨の折。何十年前の自らの行為に苦しむ彼に「あなたはもう充分に悔い改めた。そのあなたこそ、『いのち』の本当の重さを知るかけがえのない人生ではないですか。」と語りかけた。
止めどもない涙が彼の頬をつたった。
事件のあった方角に向かい、ともに五体投地の拝を繰り返して般若心経を唱えた。「ようやく胸のつかえが取れました」と別人のような安堵(あんど)の表情を浮かべて彼は再び独居房に帰っていった。

さいごに

この彼の自らをさいなみ続けた良心にこそ、又悔い改めて初めて見せた安堵の表情にこそ、人間のいのち尊厳があるのではないだろうか。
たとえどんなにどん底に落ちても、決して失われることのない、清らかな「いのち」の躍動をこそ、私たち宗教者はみずからの言葉と経験を力として、人々のこころに取り戻してゆく使命があるのだと思うこのごろである。

以 上
*注1 増谷文雄著「仏教百話」ちくま文庫

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